top of page

秦野市水泳協会の歴史

​秦野市体育協会 結成60年誌の抜粋

水泳協会の歴史_ページ_1.jpg
水泳協会の歴史_ページ_2.jpg

秦野市水泳協会
                        会長 栗原 誠

  
​  秦野における水泳の歴史は古く、当時の国や県における水泳普及の気運にもあやかり、 昭和3年ごろには有志らにより水泳会なる活動団体が設立された。
  昭和17年6月、防火用水を兼ねて大奏野女学校にプールが完成し、同年、全国壮丁水泳必成訓練の為、各町村の壮丁に水泳を実施した。
  昭和 20 年、 終戦とともに国民は一時虚脱状態となったが、当時の水泳界では古橋、橋爪等の強豪選手が続出、盛んに世界記録を樹立し、国民の志気を挙げていった。それらが刺激となって本市でもプールの必要性が高まり、昭和26年7月に本町小学校校庭に秦野町営プールを竣工し、古橋ほか一流選手を招いてのプール開きを盛大に行った。
  以来、水泳大会は毎年開催され、横浜より好泳会の応援を得て第1回母親水泳教室も開催された。また、日本水泳連盟主催の日本泳法研究会には、本協会より幹事が出席し日本水泳の技術並びに水泳普及の効果を上げていたようである。指導者における講習会に関する記録としては、昭和33年に第1回少年水泳講習会が三浦市金田海岸で行われ、50名を超える多数の参加者があり、2回目以降の参加者も激増していった。さらに、無事故での水泳指導に成功していたことから教員も加わるようになり、 初心者の指導法の習得に役立てられた。なお、第11回目からは秦野町営プールで行われるようになった。
  昭和35年、秦野高等学校のプール竣工の時は日本水泳協会より深谷理事を招き、橋爪ほか一流選手の来援を得た。終戦後は、日本水泳連盟主催による学童水泳大会が復活し、本協会も開催に向け各学校に呼びかけを行い、毎年の開催となった。このことは、小中学校に25mプールが年々に完成する契機となった。
  昭和49年7月、市立運動公園内に待望の公営50mプール等が竣工し、翌50年9月7日、県水泳連盟主催で第8回選手権大会が開催された。以後、この場所が秦野における水泳競技の原点として、市総合体育大会をはじめ、各種選手権、競技会や記録会での数多くの記録誕生を見つめてきている。

プール.png

  平成14 年12月には、おおね公圏が完成し、待望の室内温水プールも併設された。これは、時代の変遷による人々の趣向、生活形態などの多様化に対応し、特に温水プールは多くの市民に活用され、健康増進の場ともなり、多くの利用者で賑わい、また、水中エアロビクス教室、親子水泳教室といった多彩な教室事業も取り入れられるようになった。充実した施設の整備とは裏腹に、少子高齢化社会の到来から本協会の会員は減少、協会運営も低迷し、また、中学校における部活数も減少の一途をたどっている現状がある。
  そのような中、平成27年5月9日、おおね公園プールにおいて、第1回中学生水泳競技大会を本協会の主催により開催した。この大会は、低迷していた本協会の活路、新しい協会運営のヒントを生み出すのものとして、これからも引き続き、より盛大かつよりレベルの高い大会にまで位置づけることができるよう目指す所存である。
  平成30年6月よりプール監視員を育てる為に 「水上安全法救助員Ⅰ養成講習」を日本赤十字社のご協力を得て実施した。事故発生時に救助の指示及び救命処置に対応できる有資格者を育てることが目的である。同じく水難事故の多くは着衣を身に着けての事故が多く発生していることから、親子でチャレンジ!「ういてまて教室」を実施した。参加者の多くは「着衣泳」を体験する事が始めてとあって不安視していたが、講習が始まると皆さん真剣な面持ちで“ラッゴ”のごとく「ういてまて」を実践され会得されたようである。今後も安全で安心な環境作りの更なる普及と発展のため、尽力していく決意である。

出典:一般財団法人 神奈川県水泳連盟 設立90周年記念誌
令和元年12月7日発行 (一部改変)

bottom of page